
今日は【天津条約】から、わかりやすくお伝えします。
日韓併合までの出来事①はこちら
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前回は諭吉先生も関わっていた事件があってビックリしたぞー。




これからも少し出てくると思いますよ。
目次
清と交わした朝鮮に関する条約とは?
天津条約 明治18年(1885年)
明治17年(1884年)の甲申事変後、日本政府は日本国民に『竹添進一郎らと独立党が一緒に起こした反乱』ということを隠し、清が一方的に攻撃をしてきたと説明をしていた。
世論は「たくさんの日本人を虐殺した清を許すな!」という声が多く上がっていた。


私(福沢諭吉)は甲申事変に関わっていたが、「北京に進軍すべし!」と伝えたよ。
諭吉先生って意外と怖いところあるなー。
侍魂ってやつかー?


伊藤博文は北京に派遣され、清の全権大使である李鴻章(リ コウショウ)と話し合いをした。


もちろん日本側は、行使たちや在留日本人を攻撃し残虐したことに対しての追求だ。
しかし、李鴻章は「甲申事変は日本軍が関わっていたのではないか?」と反論。
甲申事変の関与を否定し、何度も伊藤博文が追求したことで李鴻章は折れ、清軍に事実確認をし返答次第で処分を下すということになった。
そして、朝鮮に関する条約が交わされた。
天津条約
1,日清両国が朝鮮にある駐屯地を撤収する(撤兵)
2,朝鮮でなにかあった時は、お互い連絡を取り合うこと(出兵)
清は完全に朝鮮から離脱するのではなく、自国の影響下に置くということは以前と何も変わらなかった。
『清は朝鮮の宗主国なので』というスタンスだったようだ。
自由民権派の人たちに伊藤博文は「弱腰外交」と言われていた。
現代の政府のほうが弱腰ですよね…。




その通り!
天津条約が交わされる1ヵ月前の3月16日に、『時事新報』に【脱亜論】が掲載されたよ。
これは、私(福沢諭吉)が書いたものなんだが「日本はアジアの中で最も成長した素晴らしい国であり、非改革的な清や朝鮮と関わらずに列強と上手くやっていこう」といった内容になる。
甲午農民戦争 明治27年(1894年)
昔の韓国(朝鮮)は、両班(リャンバン)という王族以外の最上位の身分があった。
納税もせず賄賂や民衆から物を盗んだり酷い有様だったようだ。
閔妃の政権も重税対策をし、民衆は苦しい生活を続けていいた。
お金ない人たちから盗むなんてクズだなー!


そんな生活に耐えられない農民たちの間で朝鮮政府への反乱が起こり、東学という宗教が一緒に立ち上がったことで反乱は一気に広がり戦争となった。


朝鮮政府はすぐに清へ助けを求めた。
清は天津条約通り、日本へ報告し朝鮮へ出兵した。
そして、日本も朝鮮へ出兵。
これを【甲午農民戦争】という。
別名で東学の乱とも呼ばれているよ。
朝鮮をめぐる日清戦争と列強の圧力
清の交渉拒否と背中を押すイギリス


あ!これ見たことあるぞー。




『魚釣り遊び』という風刺画で、朝鮮を釣ろうとしている横でロシアが狙っている様子なんだよ。
日本は、朝鮮を独立させて日清で改革して行きたいと交渉。
清は、宗主国の権利を放棄せず日本の朝鮮改革案を拒否。
日清の外交交渉は、こんな状態で上手く行っていなかった。
そんな時、日本に朗報があった。
イギリスが不平等条約撤廃し、新たに『日英通商航海条約』を結び日本に対して友好的な姿勢を見せてくれるようになった。
不平等条約撤廃に関する記事はこちら。
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この日英通商航海条約がきっかけで清との戦争を決意したんだ。
それほど大きな自信へと繋がったということだね。
日本政府は朝鮮の王宮へ行き、国王・高宗に意思確認をした。
「清から独立したいか?」
高宗は独立したいし清を追放して欲しいと言ったのだ。
その答えを聞き日本軍は動き出した。
日清戦争 明治27年(1894年)
《明治27年7月25日》
日本軍はソウル周辺を拠点とし、清へ宣戦布告をした。
そして日清戦争開戦!




日本軍は圧倒的に強く、清の本土まで上陸した時に清軍は戦う気力がなくなり、明治28年(1895年)2月に日清戦争は終結となった。
でも、日本人がたくさん亡くなったんじゃないのかー?


日本兵士の数 | 240,616人 |
死者数 | 13,488人 |
病死者数 | 11,894人 |


表を見てわかる通り、ほとんどが感染症による戦病死だったんだよ。
日本兵が罹患した病気
・赤痢
・コレラ
・腸チフス
・脚気
下関条約 明治28年(1895年)
日清戦争で戦勝国となった日本は、清と4月17日に『下関条約』を結んだ。
下関条約(正式名:日清講和条約)
1,清は朝鮮の独立を許可すること
2,清の遼東半島と台湾の澎湖諸島を割譲すること
3,日本人捕虜を返還すること
4,日本への賠償金2億テールの支払い
しかし、それを良く思わない国がいた。
三国干渉
下関条約を結んでから6日後の4月23日のことだった。
ロシアが主導してフランス・ドイツを誘い、「遼東半島を清へ返還しろ」と圧力をかけてきたのである。


戦争に勝ったのは日本なのに図々しいぞー!


ロシアは東アジアを支配しようとしていたから、日本の遼東半島の割譲は阻止したかったんだ。
南下していくために、戦争に有利な不凍港を持つ満州を手に入れることを考えていたが、その満州からの出口になる場所が遼東半島だったのだ。
不凍港(ふとうこう)とは、その名の通り冬になっても海面が凍らない港のこと。
日本は友好的になったイギリスに援助を求めたが、「ロシア勢が強すぎるから今回は援助できない」と断られた。
そして、苦渋の選択で清へ遼東半島を返還することとなったのだ。
閔妃殺害事件
朝鮮国王・高宗の妃である閔妃は覚えているかな?


最初は親日派だったのに、途中で親清派に寝返った人だよなー?


どら猫くんの言う通り、親日派から親清派になった国王の妃だ。
日清戦争前の高宗への意思確認から、朝鮮政府は親日派になっていた。
しかし、三国干渉があってから閔妃がまた動き出した。
「ロシアと組んで日本を排除しよう」
政権をまた握り、親露(ロシア)政策をし始めたのだ。
何回寝返るんだ?今の○国みたいじゃねーか!


正論ですけど大きい声で言えませんね…。


閔妃の日本排除計画を聞き、日本軍は阻止するために動いた。
朝鮮に駐在している元陸軍大将・三浦梧楼(みうら ごろう)の指揮のもと日本軍は、宮廷を襲い閔妃を虐殺した。
海外からは、王室の人間を残虐な手口で殺害したことを批判された。
その後、日本政府は三浦梧楼行使や関係者を日本へ呼び出し裁判を行ったが、全員無罪となった。
閔妃虐殺で朝鮮では反日による闘争やクーデターが各地で起こった。
そして親露派が増え、朝鮮国王・高宗は親露派政権を樹立させたのである。


今回はここまで!
どら猫くん、意見や質問はありますか?
オイラの意見なんだけど…
朝鮮が親日だったこと、本当はなかったんじゃないかと思うなー。


どら猫くんは鋭いことをいうね!
力も経済も弱い国だからこそ、長いものに巻かれろ精神だったのだと感じるよ。
しかし、どの国の政策も現代と似ている感じがするのは気のせいかな…?
国の特徴というものは何年経っても変わらないということだね。
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次回もお楽しみに!
参考文献:歴史に見る 日本と韓国・朝鮮,これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史,若者に伝えたい韓国の歴史,わかりやすい韓国の歴史,ビジュアル 明治クロニクル この国のかたちを決定づけた維新のドラマを読む,歴史がおもしろいシリーズ!図解 日本史,詳説 日本史図録,Wikipedia