![日中戦争サムネ](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/せんそー.png)
第二次世界大戦前に起こった日本と中国の戦いを、わかりやすくお伝えします。
この時期は、戦争が重なり合った時期。
簡単に区分けしていこう。
日中戦争➡盧溝橋事件~昭和20年(1945年)9月9日降伏文書に調印
第二次世界大戦➡独ソのポーランド侵入~ポツダム宣言を受け降伏
太平洋戦争➡日本海軍がアメリカ海軍基地に奇襲攻撃~ポツダム宣言を受け降伏
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
太平洋戦争は第二次世界大戦の中の一部になるよ。
こんな3つの戦争が起こってたなんて…オイラ怖いぞー。
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
昔の日本人が命をかけて戦ってきたことを、私達は忘れてはならない。
どんなことがあったのか、詳しくお伝えしていくよ。
目次
日中戦争(支那事変)はいつ・なぜ起こったのか?
![日本国旗と中国国旗](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/2906013_s.jpg)
一般的には日中戦争というが、両国の宣戦布告なしに始まった戦いなので、日本国内では『支那事変』と呼んでいた。
なので日中戦争=支那事変なんだよ。
日中戦争が始まったのは昭和11年(1937年)7月7日。
そして終わったのが、昭和20年(1945年)9月9日である。
お?どちらもゾロ目だなー。
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
なぜ、日中戦争は起こったのか?
もともと中国は、日本を下に見ている国なんだ。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
日本のことを『東夷』と呼んでいて、意味は『野蛮な民族』という…。
けしからんですな。
その東夷に負け続きであることが、中国は許せなかったのだろう。
日本は、中国のプロパガンダを修正せずに軸がぶれてしまったために、世界からの厳しい目を向けられるようになる。
そして、日本政府や軍の抗争も一つの要因になるようだ。
まずは、日中戦争前のそれぞれの国の動きを見ていこう。
【二・二六事件】日中戦争前の日本の動き
![日本国旗](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/2742342_s.jpg)
満洲事変から陸軍の下剋上が目立つようになったのは、この時期になる。
満洲事変について詳しく書かれた記事はこちら。
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昭和6年の出来事【満州事変】をわかりやすく知る|石原莞爾の未来構想
昭和6年に起こった満洲事変をわかりやすくお伝えします。 諭吉くんどら猫くん、今日は満洲事変について勉強するよ。 まんしゅうじへん?聞いたことあるけど、オイラよくわかんないぞー。 どら猫くん まずは、満 ...
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陸軍内部の争い(統制派vs皇道派)
陸軍内部で派閥があった。
陸軍内部の派閥
【皇道派】天皇親政を目指す→天皇が政治を行うこと。
【統制派】高度国防国家を目指す→軍による統制。
![皇道派と統制派](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/戦い-1.png)
![皇道派と統制派](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/戦い-1.png)
皇道派は、指導者が荒木貞夫・真島甚三郎。
影で動いていた者は、民間右翼指導者の北一輝。
統制派は、指導者が永田鉄山・東条英機。
タッグを組んでいた者は、岸信介・星野直樹。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
岸信介は、安倍晋三の祖父にあたる人だよ。
ここの2つの派閥が対立していたんだ。
そこで事件が起こる。
昭和10年(1935年)皇道派に影響を受けた相沢三郎陸軍歩兵中佐が、白昼堂々と陸軍省内で永田鉄山を斬殺した。
統制派が皇道派を追放しようしたことに反発し、事件を起こしたんだ。
ま…まだ武士みたいに斬る奴いたんだなー。
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
この事件を【相沢事件】と呼んでいる。
皇道派の武力蜂起【二・二六事件】
![二・二六事件の写真](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/二・二六事件.jpg)
![二・二六事件の写真](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/二・二六事件.jpg)
昭和11年(1936年)2月26日早朝、皇道派に影響された者たちによる武力蜂起が起こる。
約1500人もの部隊が、政府の人間を襲撃したのだ。
誰が襲われたんだー?次は東条英機のおっちゃんかー?
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![二・二六事件の被害者](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/二・二六事件の被害者.png)
![二・二六事件の被害者](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/二・二六事件の被害者.png)
- 内閣総理大臣・岡田啓介→本人は無事だが秘書(松尾伝蔵)が身代わりに殺された
- 内大臣・斎藤実→死亡
- 大蔵大臣・高橋是清→死亡
- 陸軍教育総監・渡辺錠太郎→死亡
- 侍従長・鈴木貫太郎→重傷
- 前内大臣・牧野伸顕→逃走し無事
他にも警察官なども被害に遭った。
オイラの好きなダルマさん(高橋是清)もいるのかー。
誰がやったんだー!!
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
武力蜂起を起こしたメンバーは
・皇道派に影響を受けた青年将校ら
・民間右翼指導者の北一輝
・元軍人の西田税
約1500人の部隊で襲いかかったのだ。
これを聞いた昭和天皇は激怒する。
![昭和天皇](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/しょうわてんのう.jpg)
![昭和天皇](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/しょうわてんのう.jpg)
昭和天皇「朕自ら、近衛師団を率いて、これが鎮定に当たらん!」
(意味:私が自ら近衛文麿の師団を率いて、皇道派を鎮める)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
なんてかっこいい天皇なんだろうか。
この当時は天皇の力が絶大だったので、軍の首脳部が速やかに鎮圧させて収束したんだ。
天皇主権にしようとしてた人たちが、天皇に鎮圧されるなんて滑稽だなー。
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
この事件を二・二六事件という。
鎮圧されてからは、皇道派は消滅した。
新たな派閥(統制派vs石原派)
![石原派と統制派](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/戦い-1-1.png)
![石原派と統制派](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/戦い-1-1.png)
皇道派が消滅したあとは、また新しい派閥争いになっていた。
戦争に前向きな統制派と、戦争回避の石原莞爾派だ。
東条英機は、真面目で融通が利かないタイプ。
石原莞爾は、人付き合いが下手で攻撃的なタイプ。
え?攻撃的なタイプなら戦争したくなりそうだぞー。
なんで石原莞爾は戦争回避したいんだー?
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
それは、ソ連が5ヵ年計画を成功させて軍事力が上がっていたからなんだよ。
1928年~1932年にソ連の首相ヨシフ・スターリンが計画したもの。
主に重工業や農業など発達させ、国力・軍事力ともに急成長していた。
石原莞爾は、世界最終戦論という考えを持っていて、最終的にはアメリカと日本が戦争すると予測していた。
しかし、めきめきと軍事力を上げているソ連を恐れて「一刻も早く日本の軍事力を上げねば!」と焦っていたんだ。
(ソ連は南下して東アジアを支配したがる国だった)
今、中国に余計な力を使うことは、今後命取りになることを知っていたんだよ。
次は、同じ時期の中国国内の動きを見てみよう。
【西安事件】日中戦争前の中国の動き
![中国国旗](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/3129245_s.jpg)
![中国国旗](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/3129245_s.jpg)
中国共産党と中国国民党
中国には2つの党が争っている。
共産党と国民党だ。
毛沢東の思想を指導理念とする共産主義の党。
財産を全部、共同所有しましょうという考え。
1919年に孫文が中華革命党を作り直して結成した党。
孫文の後継者となったのが、蒋介石。
三民主義を原則とした新しい中国の建設を目指す党。
※三民主義とは、『民族主義』『民権主義』『民生主義』で、いわゆる民主主義である。
この2つの党が中国のツートップだったんだなー。
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![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
この中国共産党が日本に悪影響を与えるんだ。
中国国民党派・張学良の裏切り【西安事件】
昭和11年(1936年)12月12日
中国国民党の蒋介石が、部下の張学良と楊虎城に監禁された。
張学良は、満洲事変の時に登場した東北軍の軍人だ。
中国国民党と共に、中国共産党を倒すべく戦っていた。
![張学良](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/05/cho.jpg)
![張学良](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/05/cho.jpg)
そして、蒋介石は中国国民党のトップの人物だ。
![蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/蒋介石の枠付き.jpg)
![蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/蒋介石の枠付き.jpg)
なぜ、張学良は蒋介石を監禁したのか?
それは、裏に中国共産党とソ連の首相スターリンがいたからだ。
中国国民党と一緒に戦ってきた軍人が、なんで急に裏切ったんだー?
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
張学良の父・張作霖が日本軍に殺害された事件があったのだが、蒋介石は日本軍への戦いを避けて中国共産党にしか目を向けていなかった。
その不満が爆発して、敵であった中国共産党と組むことにしたんだ。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/諭吉くん-泣く2.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/諭吉くん-泣く2.png)
父を殺した日本への攻撃を優先しなかったことが、張学良は許せなかったのかもしれないね。
中国共産党としては、蒋介石を殺害したかったがソ連首相スターリンに止められた。
その狙いとは…
スターリンの狙い
①中国国民党と日本を争わせて日本を排除
②蒋介石を始末
③中国を共産化させてソ連の属国にさせる
こんな狙いに中国共産党は、まんまとハマったのだ。
そして、蒋介石に国民党と共産党が協力関係になるように迫り、抗日を命じたんだよ。
この事件を西安事件という。
【日中戦争のはじまり】抑えきれなくなった中国の抗日
![中国国旗を背負った蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/しょうかいせきくん-1.png)
![中国国旗を背負った蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/しょうかいせきくん-1.png)
国民党と共産党が協力することを『国共合作』と呼ぶ。
ここから抗日として、国民党は日本に牙を向けるようになる。
盧溝橋事件
昭和12年(1937年)7月7日
日本軍はいつも通り、北平(北京)郊外の盧溝橋付近で夜間軍事演習をしていた。
![中国の地図](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ちず.png)
![中国の地図](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ちず.png)
中国が北清事変で列強に鎮圧されてから、中国国内で通告なしに演習することができた。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
北清事変に関しての記事はこちらにあるぞ。
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しかし、中国側から「事前に申請して欲しい」と申し出があり、日本軍は逐一報告していた。
それが間違えだった。
突然、日本軍に向けて中国軍が発砲してきたのだ。
事前に日時を聞いて攻撃する準備をしていたということだ。
そして、中国軍は蒋介石に「日本軍から攻撃された」と嘘をついて蒋介石の憎悪をかきたてた。
えぇっ?!日本もやり返したのかー?
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/dora.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/dora.png)
一度は交戦状態になりましたが、※不拡大方針で行きました。
※これ以上、事を大きくしないこと
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
日本政府と日本陸軍参謀本部は、事態の拡大を阻止することだけに力を注いだ。
中国側には、これ以上攻撃しないように訴えた。
7月11日に現地で停戦協定が調印され、一度は和平を誓う。
しかし、蒋介石は国民にラジオでこう演説するのだ。
蒋介石「最後の関頭に至ったならば、あらゆる犠牲を払っても徹底抗戦する」
日本では、作戦参謀部長の石原莞爾が不拡大方針を貫いていた。
ところが、中国軍に在留日本人が襲撃されるようになる。
危機感を感じた石原莞爾は日本人を守るために、やむを得ず軍を増員させることになった。
あくまで日本人の自衛のためです。
こちらから攻撃はしません。
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
広安門事件
昭和12年(1937年)7月26日
中国の攻撃は止まず、今度は広安門で日本軍への攻撃が始まった。
日本政府は中国を非難したが、蒋介石は共産党の策謀にハマっていくのであった。
日本軍も軍事行動を開始せざる得なくなった。
通州事件
昭和12年(1937年)7月29日
在留日本人を保護する任務を任されている中国保安隊3000人が、日本人を虐殺する事件が起こった。
かなりの残虐行為だった。
表現を想像して気分が悪くなる人のために隠してあるぞ↓↓↓
- 赤ちゃんを壁にぶつけて頭蓋骨を砕いて殺害
- 女性を強姦して、陰部に筒を串刺しにして殺害
え…酷いぞー。
人間のやることじゃないぞー!
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
殺された日本人の数は、223人/385人中
この事件を知った日本国民は、怒り心頭に達していた。
第二次上海事変
昭和12年(1937年)8月13日
35万人の中国国民党が上海に駐留していた日本軍4000人を襲撃した事件が起こった。
これは、中国共産党のスパイである張治中が勝手に起こした事件なんだ。
攻撃を加える。ただし戦う場所を北支のみとする。
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
北支とは、華北といい河北省・山西省・山東省・河南省の中国北部のこと。
![華北](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/華北-1-1024x848.jpg)
![華北](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/華北-1-1024x848.jpg)
石原莞爾の恐れていた『中国との全面戦争』にならないように、軍の増員として第3師団と第11師団が限定で追加された。
師団とは、軍隊の部隊編成のことである。
しかし、日本陸軍の最高司令官である松井石根から、参謀本部に陸軍部隊の増員を要請され、しぶしぶ台湾守備隊・第9師団・第13師団・第101師団の動員命令を下した。
日本海軍も出動し杭州を爆撃し始めた。
不拡大方針が壊れ、石原莞爾は辞職をすることになる。
もう、私にできることはない。
当初の予定が大幅に狂ってしまった…。
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
![石原莞爾](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/石原莞爾-1.png)
9月に石原莞爾が辞職し、参謀本部部長は下村定が就任。
下村に交代した途端、北支だけでなく上海にまで攻撃範囲を広げるようになった。
こうして大規模な争いになり全面戦争は避けられない状況へと陥ったのだ。
上海へ行った日本軍はどうなったんだー?
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
日本軍は、突入から2日余りで上海を制圧成功したんだよ。
これにより11月9日に中国軍は一斉撤退したんだ。
日本軍の戦死者数 | 負傷数 |
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9115名 | 31257名 |
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
自衛目的だったのに、いつのまにか上海まで制圧してしまった日本。
ある意味、中国の戦略にハマってしまったのかもしれない。
プロパガンダに圧される日本
![近衛首相と蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/プロパガンダ-1.png)
![近衛首相と蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/プロパガンダ-1.png)
プロパガンダ…あ~よく旅行に行ったぞ―。
青い海がキレイだったなー。
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
どら猫くん、プロパガンダの意味を知らないんですね…💧
プロパガンダとは、特定の思想を世界的に宣伝して、意図的に優位な方向へ仕向ける戦略のこと。
慰安婦像のように韓国がよくやっている手法だ。
侵略国と非難
昭和12年(1937年)9月
中国政府は、日本を『侵略の罪』で国際連合に訴えはじめた。
- 連盟規約
- 不戦条約
- 九ヵ国条約
この3つの規約に違反していると言い出したのだ。
これを受けて10月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が日本を非難。
(厳密には日本とドイツ)
日本は侵略国だ!!国際社会から隔離すべきだ。
![ルーズベルト](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/フランクリン・ルーズベルト2.png)
![ルーズベルト](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/フランクリン・ルーズベルト2.png)
こういったプロパガンダを、日本政府は一つ一つ否定しなかった。
これは現代でも同じような状況である。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
日本は、国際連合を既に脱退しているということもあったのだろうね。
この状況を見て、ドイツの駐中国大使・オスカー・トラウトマンが和平交渉工作を始める。
ドイツにとって敵国ソ連の牽制には日本が必要。
しかし、戦略物資の輸入先である中国も欠かせない存在であった。
なんとか、争いを収めようと日本と中国の仲介役を買って出たのだ。
日本も和平交渉のため、中国へ以下の要求をした。
【和平交渉】日本が中国に要求したこと
- 内蒙古の自治をすること
- 満州国周辺の非武装地帯設定すること
- 国際警察による上海の管理すること
- 抗日政策を廃止させること
- 日本と国民党で、共に共産党と戦う
- 日本商品の関税低減
- 中国における外国人の権限を尊重すること
一度は和平交渉を断りました。
しかし、日本には勝てないし首都を奪われてしまうかもしれない。
![蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/蒋介石.png)
![蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/蒋介石.png)
前向きな返答をしようとしていた時、首都である南京が日本軍により陥落目前だった。
えぇ~逃げなければ!
![蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/蒋介石.png)
![蒋介石](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/蒋介石.png)
南京大虐殺
![中国の地図](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ちず-1.png)
![中国の地図](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ちず-1.png)
昭和12年(1937年)12月7日、中国国民党の蒋介石は日本との和平交渉に応じようとしていた。
しかし、南京が陥落目前であることを知り、南京を脱出。
12月10日、日本軍は南京の光華門を奪取。
蒋介石、南京脱出!
日本軍、南京奪取!Yeah!
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
そ…そうですな。ははは…。
12月12日には、中国軍の司令官・唐生智が南京を放棄して逃走。
これに激怒した中国軍が暴動を起こし、自国民に対して放火や略奪行為を繰り返した。
12月13日、日本軍が南京占領に成功する。
中国兵は一般市民になりすまし日本兵に近づき攻撃を仕掛けてきた。
この攻撃で多くの日本兵が亡くなったんだ。
しかし!
この南京事件を中国政府は「日本軍による中国市民の大虐殺が起こった」とデマのプロパガンダを行う。
正しくは『南京事件』であり、日本による『南京大虐殺』はデマなのだ。
当時、アメリカやイギリスの強い視線を受けていた日本は、侵略行為をしないようにと憲兵が多く派遣されていた。
そして、過ちを犯した兵がいると松井石根は説教をしていたんだよ。
![松井石根](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/matsui-iwane.jpg)
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松井石根「絶対に中国の民を虐げてはならぬ!」
日本軍は道徳を大事にしており、過ちを犯した兵がいると泣きながら叱りつける者もいた。
このように日本軍が大虐殺を行うとは考えにくいのである。
戦時中にも道徳を守るなんて、いかにも日本人らしいなー。
オイラ日本猫に生まれて良かったぞー。
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この時期は近衛内閣だったのだが、南京占領からどんどん方向がズレて行ってしまう。
強気の日本政府
![近衛首相](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/このえちん.png)
![近衛首相](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/このえちん.png)
南京占領で自信を付けたのか、近衛内閣は強気な発言をするようになった。
近衛文麿の声明
![近衛文麿](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/近衛文麿の枠付き.jpg)
![近衛文麿](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/近衛文麿の枠付き.jpg)
近衛文麿首相は、中国首都である南京占領後に和平交渉条件を釣り上げた。
追加内容はこちらだ。
和平交渉の追加条件
- 戦時賠償の要求
- 非武装地帯の設置
- 経済協定の締結
- 満州国の承認
この条件を聞いてドイツのオスカー・トラウトマンは「これでは中国が承諾しないだろう」と言ったが、依然として近衛文麿首相は中国へ期限付きで回答するように要求した。
対ソ連戦が控えている可能性があるので、日本軍からは「これ以上強気に出ないほうが…」と反対する声も上がっていたのだが、近衛首相の考えは堅かった。
そして、
昭和13年(1938年)1月16日
強気の声明まで出してしまう。
近衛文麿首相「国民政府を対手とせず」
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
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蒋介石はもう相手にしない!ということを言っちゃったんだよ。
あぁー…煽っちゃったんだなー。
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そして、駐ドイツ特命全権大使の大島浩は、ヒトラー側近のヨアヒム・フォン・リッベントロップに日本とドイツで同盟を組まないかと持ちかけ始める。
北支への進軍
中国には戦意が失われつつあったが、勢いに乗った日本軍は北支への進軍を再開する。
![中国の地図](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ちず-2.png)
![中国の地図](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ちず-2.png)
昭和12年(1938年)4月7日
『台児荘の戦い』で日本軍勝利。
そして、『徐州作戦』と『漢口作戦』を同時に開始した。
①徐州作戦は、北平(北京)→天津→済南→徐州
②漢口作戦は、北平(北京)→鄭州→漢口
5月19日、徐州陥落。
6月6日に済南・開封・鄭州・西安の近くを流れる黄河が氾濫。
中国軍が日本軍の足止めをしようと氾濫させたのだが、日本軍には被害がなく中国の一般市民が大量に亡くなってしまったんだ。
罪のない一般市民が亡くなってばかりじゃねーか!
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/dora.png)
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そして10月27日、漢口・武昌・漢陽の武漢三鎮が陥落した。
ここで日本の戦闘は終了となる。
日本政府は、更に強気で中国側に蒋介石の退陣を要求。
日本政府のもくろみは、「蒋介石を退陣させれば、親日の新しい政権ができるだろう」ということだった。
汪兆銘の傀儡政権
ここで日本政府に近づいてきた者がいる。
![汪兆銘](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/汪兆銘の枠付き.jpg)
![汪兆銘](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/汪兆銘の枠付き.jpg)
孫文の側近として活躍してきた人物、汪兆銘だ。
蒋介石とは、しばしば衝突しており共産党を壊したいと強く考えていた。
そして、自ら日本に『新政権』の話を持ちかけた。
日本政府は、汪兆銘政権を工作しようとするが問題が生じた。
汪兆銘の側近が誰も彼に付いてこなかったのだ。
まじかー!って思いましたよ。
汪兆銘は蒋介石のように、人をまとめる力がなかったようです。
![近衛文麿](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/近衛文麿-1.png)
![近衛文麿](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/近衛文麿-1.png)
中国民衆の支持も得られなかった汪兆銘は、「傀儡政権で行く」と申し出た。
ある領域を統治して独立するが、おおもとの政権によって統制されている政権のこと。
ドイツ・ヒトラーの勢力と日本
![ドイツ国旗](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/1660460_s.jpg)
![ドイツ国旗](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/1660460_s.jpg)
日本が国力を上げると、いつも邪魔をしてきたイギリスとアメリカの存在を、よく思わない日本国民が増えた。
明治35年(1902年)に結ばれた日英同盟は、日本との利害の対立からアメリカの望み通りに1923年に解消させられた。
アメリカの日本人を排除するための『排日移民法』も。
イギリスのリットン調査団や、蒋介石への支援など、日本国民は反英・反米になりつつあったのだ。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
そこに同じように反英をしている国があった。
アドルフ・ヒトラー率いるドイツだ。
![ヒトラー](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ドイツ国首相.png)
![ヒトラー](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ドイツ国首相.png)
日本国民は、反英の仲間意識からドイツが好きになり、ゲーテやワーグナー、ベートーヴェンなどの文化人が人気になった。
日独伊三国防共協定
昭和11年(1936年)に日独防共協定が結ばれていたが、翌年11月に新たにイタリアが加わった。
ソ連の国際共産主義運動に反対していた3ヵ国によってベルリンで調印された協定。
アメリカから日米通商航海条約の破棄
昭和14年(1939年)7月26日、ルーズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が、堀内謙介駐米大使を呼びつけ日米通商航海条約の破棄を伝えた。
アメリカからの物資や原料を輸入していた日本にとって大打撃であった。
独ソ不可侵条約
![スターリンとヒトラー](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/すたひー.png)
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昭和14年(1939年)8月23日、敵対していたドイツとソ連が「お互いに攻撃はしないでおきましょう」といった条約が結ばれた。
それが『独ソ不可侵条約』だ。
ヒトラー率いるドイツは、1938年にはオーストリア併合、1939年にはチェコスロバキアを解体し占領するなどヨーロッパの国々を侵食。
ドイツの次の狙いはポーランドだった。
ソ連はバルト三国やルーマニア領の占領が目的。
秘密議定書もあり、お互いの権益を認める内容も書かれていたのだ。
俺こっち貰うから、お前こっちあげるってかー。
なんて傲慢なやり取りなんだー。
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ポーランド侵攻
昭和14年(1939年)9月
ついにドイツがポーランドに侵入。
これにポーランドと同盟国であったイギリス・フランスからドイツに戦線布告。
そして、第二次世界大戦が始まったのである。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
ここから日本は大変なことになるんだ。
続きは、また別の記事で伝えようか。
【日中戦争(支那事変)はなぜ起こったのか?歴史をわかりやすく学ぶ】まとめ
わかりやすく登場人物と年表をまとめるよ。
この記事のおもな登場人物
《日本》
- 昭和天皇
- 陸軍参謀部長 石原莞爾
- 皇道派 荒木貞夫
- 統制派 永山鉄山
- 統制派 東条英機
- 内閣総理大臣 岡田啓介
- 内大臣 斎藤実
- 大蔵大臣 高橋是清
- 侍従長 鈴木貫太郎
- 陸軍教育総監 渡辺錠太郎
- 前内大臣 牧野伸顕
- 総理秘書 松井伝蔵
- 民間右翼指導者 北一輝
- 元軍人 西田税
- 内閣総理大臣 近衛文麿
- 陸軍最高司令官 松井石根
《中国》
- 国民党総裁 蒋介石
- 共産党総裁 毛沢東
- 国民党派の東北軍 張学良
- 国民党副総裁 汪兆銘
- 共産党のスパイ 張治中
《他》
- アメリカ大統領 フランクリン・ルーズベルト
- ドイツ首相 アドルフ・ヒトラー
- ソ連最高指導者 ヨシフ・スターリン
- アメリカ国務長官 コーデル・ハル
- ドイツの駐中国大使 オスカー・トラウトマン
年表
年 | 出来事 |
---|---|
昭和11年(1936年)2月26日 | 二・二六事件 |
昭和11年(1936年)11月25日 | 日独防共協定 |
昭和11年(1936年)12月12日 | 西安事件 |
昭和12年(1937年)7月7日 | 盧溝橋事件【ここから日中戦争】 |
昭和12年(1937年)7月29日 | 通州事件 |
昭和12年(1937年)8月13日 | 第二次上海事変 |
昭和12年(1937年)11月 | 日独伊三国防共協定 |
昭和12年(1937年)12月12日 | 南京事件 |
昭和12年(1937年)12月13日 | 南京 陥落 |
昭和13年(1938年)1月16日 | 近衛首相の声明「国民党と対手せず」 |
昭和13年(1938年)4月7日 | 台児荘の戦い |
昭和13年(1938年)5月19日 | 杭州 陥落 |
昭和13年(1938年)10月27日 | 武漢三鎮 陥落 |
昭和14年(1939年)7月26日 | 米の日米通商航海条約の破棄通告 |
昭和14年(1939年)8月23日 | 独ソ不可侵条約 |
昭和14年(1939年)9月1日 | 独のポーランド侵攻 |
昭和14年(1939年)9月3日 | 英・仏の独への戦線布告【第二次世界大戦】 |
そして、太平洋戦争へと続いていく。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
このシリーズの続きをお楽しみに!
この後の日本のことが心配でオイラ眠れないよー。
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
参考文献の紹介
一気に読める「戦争」の昭和史はとても戦争の流れがわかりやすい書籍なので、一度は読んでみることをおすすめする。
日本史図録は、高校でも使用されているものである。
細かく写真や年表付きで説明されている。
その他参考:Wikipedia,世界史の窓様,中国まるごと百科事典様