![](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/聖徳太子サムネ.png)
日本紙幣に登場する聖徳太子は、一体どんなことをした人物なのかを、まとめた記事になります。
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どら猫くん、今日は聖徳太子についての勉強だよ。
おぉー!オイラ聖徳太子の順番が来るのを楽しみにしてたぞー。
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目次
聖徳太子は何をした人なのかザックリ
まずは、聖徳太子は何をした人かをザックリとお伝えしよう。
- 推古天皇の摂政
- 冠位十二階
- 憲法十七条
- 遣隋使を送る
これらの出来事を詳しく勉強していこう。
聖徳太子の誕生と家系図
![](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/聖徳太子の家系図2.png)
※赤は女性・ピンクは夫婦関係
わーグチャグチャだぞー。
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昔の天皇家は、親戚や異母兄弟との結婚ばかりだったんだよ。
《 人名読み仮名 》
欽明天皇きんめいてんのう
用明天皇ようめいてんのう
穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ
堅塩媛きたしひめ
穴穂部皇子あなほべのみこ
崇峻天皇すしゅんてんのう
膳部菩岐々美郎女かしわでのほききみのいらつめ
厩戸皇子の由来
聖徳太子は、本当の名前は厩戸皇子。
読み方は様々あるんだ。
厩戸皇子
・うまやとのおうじ
・うまやとのおう
・うまやどのおうじ
・うまやどのみこ
欽明天皇の孫同士(いとこ)である、用明天皇と穴穂部間人皇女が結婚。
574年、その間に生まれたのが厩戸皇子(聖徳太子)である。
穴穂部間人皇女が出産のために里帰りしていたのだが、馬小屋前で産気づいて生まれたので『厩戸皇子』と名前が付いたんだそうだ。
日本初の女帝になった推古天皇は、厩戸皇子の叔母にあたる。
蘇我氏も親戚関係になるんだ。
蘇我氏はなぜ親戚なのか
蘇我氏がなぜ天皇家と親戚になれたのか。
蘇我馬子の父・蘇我稲目が娘の堅塩媛を天皇家へ嫁がせたからである。
堅塩媛が、厩戸皇子(聖徳太子)の祖父・欽明天皇と結婚してから、蘇我氏と天皇家は次々と濃い親戚関係へとなった。
そうして強い権力を手にしてきたんだ。
蘇我氏と物部氏の争い
ヤマト政権から、氏(うじ)+姓(かばね)で職位を分けられた豪族が権力を握っていた。
政権の中心である、蘇我氏と物部氏がある出来事をキッカケに争うこととなる。
(…というより、蘇我氏が仕掛けたことである)
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その前に、氏と姓について詳しく載っている記事があるぞ。
蘇我氏と物部氏の地位についてこちらで確認しよう。
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【ヤマト政権(王権)の豪族】氏と姓の仕組み
ヤマト政権の氏と姓や、構造など図を用いてわかりやすくお伝えします。 諭吉くんヤマト政権は3世紀後半~7世紀中盤の政権になるぞ。(古墳が存在していたのが3世紀後半~) すごい昔だなー!オイラ蘇我氏しか知 ...
続きを見る
仏教の推奨派と否定派
大和(日本)は、朝鮮半島にある百済(くだら)と親しくしていたので、中国大陸や朝鮮から色々な文化が伝わっていたんだ。
538年
厩戸皇子の祖父・欽明天皇の時代に大和(日本)に仏教が伝来した。
インド ➡中国 ➡朝鮮(百済) ➡大和(日本)の流れで伝来。
天皇は仏教を政治に取り入れていこうとしていた。
ところが、日本には古来の神が存在する。
祭祀(神道)を職業とする者が多くいる連(むらじ)には不都合なものだったんだ。
特に、大連(おおむらじ)の物部氏は神(邇芸速日命 ニギハヤヒ)の子孫だったので強く反対した。
![](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/蘇我氏VS物部氏.png)
![](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/蘇我氏VS物部氏.png)
大臣である蘇我氏は、物部氏と対立。
政権の中心は大臣と大連。
蘇我氏は権力を強くするために物部氏を排除させようとする。
蘇我氏と厩戸皇子が物部氏を排除
蘇我氏とは
蘇我稲目(いなめ)
蘇我馬子(うまこ)
物部氏とは
物部麁鹿火(あらかび)
物部尾輿(おこし)
物部守屋(もりや)
587年4月
厩戸皇子の父・用明天皇が崩御(亡くなる)。
同年6月
物部守屋が天皇にしようとしていた穴穂部皇子を、蘇我馬子が暗殺。
蘇我馬子は、仏教を推す天皇家の子・厩戸皇子を誘い、物部氏を排除する計画を企てた。
同年7月
蘇我馬子と厩戸皇子は、物部氏を滅亡させた。
神さまの子孫なのに?!
なんで滅亡させたんだよー!
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天皇家は仏教にすっかり心打たれてしまったんだろうね…。
推古天皇の誕生
推古天皇は日本初の女帝で有名だね。
しかし、その影には蘇我馬子がまた関わっていたんだ。
大臣の蘇我馬子は用明天皇の異母兄弟にあたる、崇峻天皇を推薦し即位。
蘇我馬子は崇峻天皇を利用し政権を握っていた。
崇峻天皇は実権を握られていることに不満を漏らしていた。
そこで、蘇我馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使い、崇峻天皇を暗殺する。
そして、次は推古天皇を推薦し即位となったのだ。
![推古天皇の説明](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/推古天皇.png)
![推古天皇の説明](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/推古天皇.png)
酒宴で、お互いに信頼し合う詩をうたっている程、推古天皇は蘇我馬子を慕っていた。
推古天皇の摂政となる
推古天皇は、蘇我馬子に推薦された時に亡き兄の子・厩戸皇子を摂政にしたいと申し出た。
ここから推古天皇と厩戸皇子の政治が始まったのだ。
厩戸皇子は20歳で摂政となる。
仏教を広めて行くために、まず寺院を建てた。
それが、四天王寺だ。
厩戸皇子が建てた寺院
![四天王寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/3cea4e2075527121fc6ed996f3566df8_s.jpg)
![四天王寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/3cea4e2075527121fc6ed996f3566df8_s.jpg)
![夜の四天王寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/26cc4cb8762ec58675809300d382a2d5_s.jpg)
![夜の四天王寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/26cc4cb8762ec58675809300d382a2d5_s.jpg)
![5重塔](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/936c455e5365535f9d107602fe10a1ad_s.jpg)
![5重塔](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/936c455e5365535f9d107602fe10a1ad_s.jpg)
仏教興隆の詔(みことのり)
仏教を国の信仰とするために、推古天皇と厩戸皇子は『仏教興隆の詔』を出した。
別名『三宝興隆の詔』ともいう。
簡単に言うと、仏教を広げていきなさいという命令になる。
これにより、臣や連は競って寺院を建て始めた。
蘇我馬子の建てた寺院
![飛鳥寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/Wikipedia飛鳥寺.jpg)
![飛鳥寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/Wikipedia飛鳥寺.jpg)
厩戸皇子(聖徳太子)の師と政策
![聖徳太子の説明](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/うまやどちゃん-2.png)
![聖徳太子の説明](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/うまやどちゃん-2.png)
厩戸皇子の師
595年
高句麗から一人の僧侶が来日した。
名前は慧慈(えじ)。
慧慈は、厩戸皇子に仏教を教え、師となった。
遣隋使の派遣1回目
遡って562年
大和(日本)と親交の深かった朝鮮の伽耶が新羅に併合された。
朝鮮半島との外交には伽耶の復活が必要だった。
しかし、威力を強めている新羅は大和にとって邪魔だった。
600年
そこで、厩戸皇子は隋の力を借りて新羅征伐しようと計画。
中国とは外交を一切していなかった為、遣隋使を派遣した。
しかし、隋の文帝(ブンテイ)に追い払われ失敗。
冠位十二階の制定
603年
今までの身分制度(氏・姓)とは違い、生まれつきの身分ではなく、功績に応じて12の身分に分けた。
帽子の色で分け、昇進も可能であった。
濃紫~大徳 高い
薄紫~小徳 ⬆
濃青~大仁
薄青~小仁
濃赤~大礼
薄赤~小礼
濃黄~大信
薄黄~小信
濃白~大義
薄白~小義
濃黒~大智 ⬇
薄黒~小智 低い
憲法十七条の制定
604年
日本の基本である『和』を重要視し、仏教に基づいた憲法を制定した。
憲法十七条
1、和を大切にすること
2、仏教を敬うこと
3、天皇に従うこと
4、礼法を基本とすること
5、訴えは公平に裁くこと
6、勧善懲悪を徹底させること
7、各々の職務を守ること
8、朝早く出仕して夜遅く退出すること
9、真心を持つこと
10、怒りの心を持たないこと
12、官人の功績や過失は賞罰を行うこと
13、国司・国造は百姓から税を取らないこと
14、官使は自分の職務を熟知すること
15、他人に嫉妬しないこと
16、民を使う時は時節を考えること
17、物事は独断ではなく会議で決めること
日本の心の基礎を作ったのは、厩戸皇子だったんだよ。
第8条は日本人に根強く残っててダメなところだなー。
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遣隋使の派遣2回目
607年
2回目の遣隋使として豪族出身の小野妹子が抜擢された。
厩戸皇子は、隋の煬帝(ヨウダイ)宛の国書を手渡した。
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/ゆきちり-1.png)
その国書が常識はずれなもので、煬帝は不快感を示したそうだ。
悪口でも書いていたのかー?
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国書が、立場が対等のような文章だったからなんだ。
それまでの倭国の王や卑弥呼は国書を送る時は、へりくだった文章で書いていたんだよ。
運良く、煬帝も高句麗を良く思っていなかったので、大和(日本)に国使を送ってくれたんだ。
その国使は裴世清(ハイセイセイ)という者だった。
2回目の遣隋使により、中国との交流は再開できたが、外交は上手く行っていなかったんだよ。
小野妹子は功績を讃えられ、冠位十二階で一番位の高い『大徳』が授けられた。
同年の607年
厩戸皇子は斑鳩に斑鳩寺いかるがでら(法隆寺)を建てる。
![斑鳩寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/b3a771efc4cac2b2f2ddd0b51fd7254e_s.jpg)
![斑鳩寺](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/b3a771efc4cac2b2f2ddd0b51fd7254e_s.jpg)
蘇我馬子と共に記したもの
620年
厩戸皇子と蘇我馬子は3つの歴史書を書いた。
天皇記
皇室の系譜を書いたもの。
推古天皇の父・欽明天皇の50周忌に作成した。
国書
古事記や日本書紀よりも古い書物。
大和の歴史を書き記したもの。
※645年の乙巳の変で蘇我蝦夷の家が燃やされた時に、天皇記と国書は燃えてしまったのではないか?と言われている。
臣連伴造国造百八十部丼公民等本記
天皇に仕えていた豪族に関する書物。
厩戸皇子の最期
621年
厩戸皇子の母・穴穂部間人皇女が病死。
その後、厩戸皇子と最愛の妻・ 膳部菩岐々美郎女は共に病気になった。
622年2月21日
膳部菩岐々美郎女が病死。
そして翌日の2月22日
後を追うように厩戸皇子が病死した。
生前に「共に埋葬されよう」と 膳部菩岐々美郎女に伝えていた。
約束していた通り、2人は同じ古墳に仲良く埋葬されたのだった。
夫婦が眠る叡福寺北古墳
![聖徳太子の墓](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/叡福寺北古墳.jpg)
![聖徳太子の墓](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/03/叡福寺北古墳.jpg)
皇子が亡くなったの猫の日じゃねーかー!
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![どら猫くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2019/09/どらねこ-1-300x174.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/諭吉くん-泣く2.png)
![諭吉くん](https://nihonshihei.com/wp-content/uploads/2020/06/諭吉くん-泣く2.png)
もう…いい話なのに笑わせないで下さい。
その後、人々は厩戸皇子の偉業と徳を讃えて『聖徳太子』と呼ぶようになった。
聖徳太子建立七大寺と呼ばれている寺院があるが、四天王寺と法隆寺以外は厩戸皇子が建てたという根拠がハッキリしていない。
ここまでが、聖徳太子に関するまとめ記事になるよ。
紙幣の記事には、細かな部分を少しづつ出していくので、お楽しみに!
聖徳太子が亡くなった後の話は、改造兌換銀行券100円に書かれているぞ。
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改造兌換銀行券100円 めがね100円【藤原鎌足】と大津事件
明治24年に発行された改造兌換銀行券100円(100円札)に描かれた人物と、発行年の出来事をわかりやすくお伝えします。 諭吉くん今日は改造兌換銀行券100円の勉強をするよ。 改造兌換銀行券はこれが最後 ...
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参考文献:Wikipedia,歴史が面白いシリーズ!図解 日本史,詳説 日本史図録,古代をつくった人々 推古天皇・聖徳太子